渡部豊子さん
新庄民話の会」結成当初からのメンバーで、新庄・最上に伝わる民話の語り手として、市内の小・中・高生はじめ福祉施設、老人クラブなどでも語りの活動を行っている。

工藤恵子さん
新庄市市民活動交流ひろばぷらっとで、延べ2万人の活動者を支援してきた市民活動相談員。
東日本大震災の際には自らも支援活動に参加したほか、様々な支援団体ネットワークの事務局を務めた。
モガジョでは副代表として事業企画と制作を担当している。


工藤  「新庄民話の会」の活動はいつも拝見しております。私も毎年語りのイベントを楽しみにしている一人です。毎回会場が満員になるのは根強いファンがいるということですよね。

渡部 こちらこそ、私たちなんて昔語りしかできないんだから、工藤さんみたいな協力者や「新庄ふるさと歴史センター」が事務局としてバックアップしてくれないと何にもできないし、本当に感謝してます。
毎年春に発行している「てんぐだより」の原稿づくりや印刷に始まり、平成22年「全日本語りのまつり」が新庄で開催された時も、平成25年「やまがた語りのつどい」で東京学芸大学の石井正己教授の基調講演を開催した時も、活動資金の調達ではぷらっとに大変お世話になりました。
工藤さんのサポートが無かったらあんなに大きい事業はできなかったから相談して良かったですよ。

工藤 そんなこともありましたね。私が渡部さんや民話の会の活動を知ったのは、もう10年以上前の事ですから、振り返ってみると懐かしいです。
私が「新庄市市民活動交流ひろば ぷらっと」で市民活動支援に携わる前、新庄観光協会に勤務していた時に、渡部さんの著書を薦められ読んだのが最初でした。
私はおばあちゃんっ子だったのでうっすら昔語りをしてもらった記憶が残っているんです。

民話の会は活動30周年を迎えられたんでしたね。渡部さんはどういう理由で入会しようと思ったんですか?

渡部 現在会長の佐藤榮一さんが、当時、新庄市社会教育課長だった時、テレビやオーディオの普及で昔語りは下火になってしまった時代だったけど、國學院大学の野村純一教授が真室川や萩野に通って何冊も昔話の本を出版したりしたのもあって、民話や昔語りの文化に再び注目が集まってきた頃だったね。
「新庄の民話を何とか守っていかなきゃ」ということで、最上地域史研究で第一人者の大友儀助先生を会長に、民話の会ができることになったの。

市の後押しで会員を募集した際、私は「子どもの頃から大好きだった昔語りがまた聞けるなぁ」と思って入会したの。
市内だけでなく最上郡内から集まって60人を超える会員が集まったんだよ。それが昭和61年のことだね。

工藤 当時の活動はどんなものでしたか?

渡部 会員が月1回集まって昔語りをやり、年1回は「みちのく民話まつり」という、市民や愛好家らを集めて昔語りを聞かせる催しをやるかんじだったから、今とほぼ同じスタイルだと思うよ。
私も入会時は40代前半で一番若いほうだったから、誰も私が語れるなんて思ってなかったし私も人前で語ろうなんて思わなかったから、ただ会員のお年寄りたちが昔語りするのを面白いなぁと思って聞くだけだったね。

工藤 渡部さんが語り手になったきっかけは何だったんですか?

渡部 それが、その頃主に語り手だったお年寄りたちは、1〜2年もするうちに、体調を崩したり、運転できないから乗せてくれる人がいないと行けないとかいう理由で、一人抜け二人抜けして、語れる人が少なくなってしまったの。
それで、自分と同じ、もしくはちょっと上の先輩方が語りの練習をするようになっていったけど「会場の後ろまで聞こえるように大きい声を出して」とか「子守唄は上手に歌おう」とか、ピアノや音楽を流す演出をする人もいて、私は「これは本当の昔語りじゃない」っていう気持ちが出てきてしまって。

小さい時に自分の祖父母から聞いてきたものが昔語りだと思っていたから、ただそれを思い出して語るしかできなくてやっていたんだよね。
そうしたら、真室川から来ていた先輩方が「あんたの語りが本物だ、頑張らなきゃなんないよ」って言って、「あんたが語んなきゃ本当の語りできる人がいなくなる」って励ましてくれたの。
それで、「ああ、これでいいんだ」と思ったし、そういう先輩方からいっぱい話を教えてもらって残してもらったの。
私は自分の祖父母がしてくれたように語るだけ。

工藤 以前、私が民話の会の助成金申請に関わった際に色々と活動のお話を聞かせて頂いて感じたんですけども、民話というのはその土地に根差してきた先人の教訓や知恵が集まったもので、それに子どもでもわかりやすいエピソードが入った、いわば「地域の中での賢い生き方の教え」みたいなものですよね。
時にはユーモラスで、ある時は恐ろしく、聞いた者が納得して共感できるからこそ心に残るし、昔話の中には、人としての礼儀や常識、世の中との繋がりの大切さ、家族を思いやる優しさや温かさ、そういうものが詰まっているそんな気がしました。

渡部 そうなのよ。しかも「隔世伝承」という、祖父母から孫へ、っていうものなの。
なぜかというと、子どもが小さい時、親は生活の基盤を支えるのに精いっぱいだから、子守りは祖父母の役目だったわけ。
親が子どもにかまっていられる時間は限られているから、「あれは駄目、これは駄目」って言葉がストレートになってしまうでしょう?
すると子どもも反発したくなる。

でも、祖父母なら「うちのめんごなぁ、こげだごどすっと、駄目だんねがぁ」って、優しく教え諭すことができるのよ。
これは昔から続いてきた知恵だし文化なの。時代が変わっても本質は同じ。親が子育てに悪戦苦闘している時こそ、祖父母世代の出番なのよ。

私は自分の孫にも、ケンカした時の仲直りの仕方、謝り方なんかを話して聞かせるけど、私も「謝り方知らねぇど、大人なってがら苦労すっぞぉ」とか「自分のほうがら『許せなぁ』って言えば、許さねぇ人いねぇなあぞぉ」ってよく婆んちゃんに言われたなぁって、今でも思い出す。
時には「お金じゅうなはなぁ、『有る時の倹約、無い時の辛抱』って言って、有る時はなんぼ倹約したって心の中さ余裕あっがら何でもねぇし、無い時にはあと何日って数えて辛抱するくらいでないど、お金じゃ貯まんねぇもんだ」って教えられたもんだ(笑)。
私が自分の婆んちゃんを思い出すくらいに、自分は孫たちに「何か残せてるかなぁ」っていつも思うのよ。
私もこの子たちにとって、そういう婆んちゃんになりたいと思うね。

工藤 渡部さんの話を聞くと、私も自分の祖母との思い出が蘇ります。昔語りにはそういう愛情が溢れているんですよ。
聞き手と語り手の間に深い信頼があるから、多少悲しい結末や人の生き死になどの負の内容があっても、子どもなりに受け止めることができるんだと思います。


"その時の興味って言ったら、ただの興味じゃなかった"

工藤 渡部さんは自身のお孫さんだけでなく市内の小学校でも子どもたちに昔語りを教えられていますが、これまでの活動の中で良かったと思うことは何ですか?

渡部 これは私個人のことだけども、「民話と文学の会」っていう、年1回夏に全国各地の民話を採訪して回る会に入ったの。
佐渡ヶ島だ、京都の山奥だ、岐阜だって、新庄にも来たし、真室川には2回も来たんだけど。

参加者は班に分かれ地元のお年寄りにその土地の民話を聞きに行くの。
朝から夕方までいっぱい聞いて夜は遅くまで話し合って原稿にまとめていくっていう一週間を送るのよ。
それに各地から仲間が集まってくるんだけど、みんなに会うのが楽しみでね。

そこで知り合った人たちは凄い人ばかりで、すごく刺激を受けたし、昔話とか民話の深さに気付かされた経験だったのよ。
新庄の中にだけ留まっていたら知り合えなかった人たちに出会えたから本当に良い経験をしたと思うね。
それにそこで知り合った民俗学者の杉浦邦子さんっていう方から「新庄では子どもたちに語って聞かせてないの?」と小学校に教えに行くアドバイスを受けて、それで市内の小学校に行くようになったの。

私は昭和小学校が閉校するまで毎週木曜日、約15年通ったけど、最後の日、大きくなった卒業生の子が花束を持って来てくれた時は嬉しかったね。
みんな、昔語りが好きで真剣に聞いてくれた子どもたちだったけど、その成長を感じられたのは本当にやってきて良かったと思ったことの一つだね。

工藤 今や渡部さんの語りは市内の小中学校から高校や福祉施設、老人クラブにも行かれていますよね。
県外でのご口演も多いとのことですが、近年はインドのネルー大学まで行かれたとお聞きしました。
そこに至るまでの苦労や努力ってどんなことがありました?

渡部 そうねぇ、一番大変だったのは、その「民話と文学の会」で知り合った人たちが中心で國學院大学名誉教授の野村純一先生のもとで日本の昔話を学ぶ「野村カレッジ」っていう勉強会を限定30名でやっていると知った時、私はどうしてもそこで勉強したくて、月1回一泊二日、土曜の午後から夕方まで「日本の昔話学」の講義、夕食後は参加者で語りの自主勉強、翌日午前中は先生の講義という日程で、丸2年、埼玉まで通ったの。

その後、大学主催の公開講座「口承文芸学講座」って名前が変わったけれども、それになってからも東京まで3年通い続けた。
その頃は日帰りするために朝早く新庄を出るから、眠くてね(笑)。

仕事もしながら月1回といえど時間をやりくりするのは大変だったし、お金もかかる、それをやっているからって家の中のこともしなきゃなんないのが女だからね。
行き帰りの電車の中で「帰ったらこれしなきゃ」とか思いながらも、でも「自分で決めたことだからやり通さなくちゃ」と思って何とか続けたの。

50歳も過ぎてから勉強だなんて笑われるかもしれないけど、「他人は他人、自分は自分」だからね。
退職したら…とか、子育てが一段落したら…とか思ったって、自分の都合で機会は巡ってくるものじゃない。次はいつになるか、もう二度と来ないかもしれない。だったら、その時に自分を奮い立たせて真剣になってやらなきゃいけないと思うの。

工藤 渡部さんの場合、それがあったからこそ、野村教授はじめ、東京学芸大の石井教授や多くの素晴らしい人脈を得たわけですから、努力が実を結んだわけですね?

渡部 そう、そのおかげで本の出版の仕方も覚え何冊か出すこともできた。
自分の祖父母の語り、「石童丸」や「巡礼おつる」、「月小夜昔」などがどこまで真実味があるのかを調べることもできた。
そしてNHKの深夜番組「民話を語ろう」や「こころの時代」と2回出演することもできた。

今、県内外で語りの依頼があった時には、必ず地元新庄のPRをして帰ってくるけども、そうやって故郷にわずかでも貢献できるようになったから、苦労や努力は必ず良いことと結びついているんだと思うよ。


"思い切って踏み出さないと現状の課題や不満は解決しない"

渡部 最上地域の人って、いつも周りを見ながら「みんなと同じ」と行動する人が多いように思うけど、そればかりでは自分の好きなことや能力を活かして充実した人生を送ることはできないと思うよ。
みんなそれぞれできることが違うし、考え方も方法も違っていいけど、「誰かに任せておけばいいや、自分は知らない」という無責任では駄目よ。
自分のできることを見つけなきゃ。

工藤 一人ひとりが自分のできることをやっていくことしか地域の課題を解決していく特別な方策はないんじゃないかと思うんです。

私は長く市民活動支援に関わって、輝いている人をたくさん見てきました。
でも、その多くがシニア世代なので、私たち30〜40代がもう少し頑張らないといけないなと思うようになったんです。

それで、最近は自分自身も最上地域女性応援会議(通称モガジョ)という団体を作って活動するようになりました。
仕事と家庭、特に子育てと夫の両親の介護でダブルケアの真っただ中なので、それだけの毎日では自分自身が潰れてしまいそうで、だからこそ、外に出て色々な人と?繋がることが必要だと思ったんです。

実際にモガジョメンバーの職業はバラバラだし、スキルや専門性も異なるので、刺激があって成長し合える関係です。
一緒に事業を展開していく上で、この個々の違いこそが強みになると感じています。

渡部 工藤さんは、どういう理由で市民活動の相談員になったの?

工藤 前職が新庄観光協会に勤務していたと言いましたが、そこで、平成14年に「花咲かフェア」、15年に「国民文化祭」、17年には「新庄まつり250年祭」を経験しました。
その中で多くのボランティアの方々と知り合うことができたんです。
そういう方々に娘や孫みたいに可愛がってもらったこともあって、「私も何かお手伝いしよう」と思うようになったんです。

その後、自分もまちづくりの若手グループで活動するようになり、観光協会は出産を機に退職しましたが、その活動が縁で「ぷらっとにどうか?」と誘われ事務補助として入りました。
少しずつ様々な活動に関わるようになり現在に至ります。

「市民活動相談員」という肩書がついたのは平成23年の4月からで、その年は震災があり、被災地支援活動の事務局を務めたり、現地とのコーディネートを社会福祉協議会やボランティアセンターと連携しながら進めたりしました。
でも、ぷらっとは新庄市が設置した支援機関ですから、「公平・中立」でなくてはなりません。ですから、特定の団体に所属した活動はいったん休止して、どの団体とも等しく関わることを自分なりの信念にやってきたつもりです。

これから活動をはじめようという方や立ち上げたばかりの小さな団体も、行政の委託事業をこなすNPOでも、必要があればその団体のお財布事情まで見せてもらいサポートをしてきました。
どこにも所属はしませんが、どの団体のメンバーでもあるという立ち位置で、相談内容に向き合うように心がけてきました。
即座に解決しない相談が多く、何年も関わる活動がほとんどです。
でも、自分の関わった団体の活躍は嬉しいですし、渡部さんたちのように頑張ってくれている先輩方がいるおかげでこの地域が今の形で存続できるんだという思いがあったので、時には無理もしながらやってきました。

今では休日でもあちこちで声をかけられるほどですよ(笑)。

渡部 工藤さんの場合、代わりがいないから大変でしょう?
でも、私たちはぷらっとがあるおかげで何でも相談できて助かっているけど。

工藤 代わりがいないというのは大きなプレッシャーでしたね。
自ら各地の支援センターに研修や講座を受けに行って、助成金申請では担当に何度も問い合わせたりしてやってきましたが、その方法が良かったかどうかは今もわかりません。
「抱えすぎ」と指摘されることもありますが、年間2,500人以上の活動者と向き合ってきたのは、後にも先にも私だけだと思いますから、この経験と実績は自分の中で自信と仕事へのプライドになっているとも思いますね。

今後も必要とされるかぎり活動支援にはずっと関わっていきたいと思っています。

渡部 後方支援だけじゃもったい、これからは工藤さん世代も頑張らなきゃ。

工藤 最近はそう、頑張らなきゃいけないと思うんですよ。
先ほど、特定の団体では活動しないでやってきた…と言いましたが、平成27年3月にモガジョを立ち上げたので矛盾してると思われるかもしれないんですが、これは、自分にとって次のステージだと思っています。

実をいうと最初は、モガジョの前身になった最上総合支庁主催の講座も、事業のアドバイスとお手伝い役として関わっていこうと思っていたんですが、ちょうどその頃、兄が病気で亡くなるという私にとって凄くショックな出来事があったんです。
兄は42歳で亡くなりましたので、まだまだやりたいこともきっとあったはず。私は仕事も子育てや介護も大変ではありますが、生きているからこそ立ち向かえるんです。

世の中にはそれが叶わない人がいるという現実を目の当たりにした時、与えられた機会は無駄にはできないと思ったんです。
それが、私が自ら団体を立ち上げ活動しようという気になった理由の一つです。それと、ぷらっとで培った経験を活かし、活動の下支えができる人材を増やしたいとも思いました。
自分も更に学びながら、仲間とともに高め合えたらいいなぁと思っています。

渡部 誰にでも仲間は必要。同じ志の人たちと学び合うことで、一人ではできないことも経験できる。
「みんな一緒」っていうんじゃなく、それぞれの個性を上手く活かすことで、色々な輝きが生まれてくるんだよね。
それが「人」の面白いところだと思うよ。

工藤 今まで関わったたくさんの方々の力をお借りして、モガジョでも次の世代の活動者や活動を支える人材を育てる事業を展開していきたいです。
それには渡部さんたちのようなシニア世代の経験や知恵も絶対に必要になってきますから、これからもはどうぞ色々と教えてください。

渡部 私たちみたいな爺んちゃん婆んちゃんが若い人たちの役に立てるといいなぁと思うね。まちづくりだって社会教育だって、何かもう少し手伝えることがあるんでないかなぁ?
お互いに得意分野を活かして、新庄・最上地域を盛り上げで行くべ(笑)。